(令和8年3月に起きた、緊迫の朝の話です)
朝5時20分、運命のカウントダウン
いつも通り、夜の名残がまだ街の底に沈んでいるような静かな時間。
私は千代田区鍛冶町二丁目八番五号にある店を出ました。
ここから豊洲市場まで、相棒の電動アシスト自転車を漕いで向かうのが毎朝の日課です。
毎朝、店を出る前(というか、本当は前夜の寝る前)に天気予報を隅々までチェックするのがルーティン。
予報では「すでに雨」のはずでしたが、見上げると幸いにもまだ曇り空。
「よし、降ってないじゃん! ラッキー!」
そう心の中でガッツポーズをしつつも、念のため雨合羽(カッパ)を準備して店を後にしました。
今日のターゲット(仕入れ)は、ただ一つ。「ミル貝」です。
市場にあるか無いかは、行ってみなければ分かりません。
それでも行く。
それがプロとして当たり前の仕事だと思っています。
鍛冶町から豊洲市場までは約7キロ。
身体はまだ半分眠っていますが、ペダルは素直に回ってくれます。
……そう、あの瞬間までは。
江戸橋で起きた悲劇!「ガシャン!」と消えた足の感覚
悲劇が起きたのは、約1.8キロ地点の「江戸橋」に差し掛かったときでした。
歩道に上がろうと、軽く縁石にタイヤを当てた瞬間――
「ガシャン!!!」
突然、足元の感覚がフッと消えました。
続いて響く、「ガラガラガラ……」という不穏極まりない音。
ペダルが虚しく空回りします。
「……嘘だろ? チェーンが外れた……!?」
しばらくその場で、動かなくなった自転車を呆然と見つめました。
こういうトラブルは、無いわけではありません。
ただ、「なぜ、よりによってこの忙しい早朝に起きるんだ!?」と、自分の引きの強さを呪いたくなります。
手で直そうかとも思いましたが、電動アシスト自転車の複雑なチェーンなんて触ったことがありません。
工具もないし、なによりこれから食材を扱う仕事です。
油で手を汚すのだけは絶対に避けたいところ。
その時、頭をよぎったのは、馴染みの自転車屋さんの優しい言葉でした。
「マスター、自転車のバッテリーが無くなったり、何かの拍子で動かなくなったら、その場に乗り捨てて帰ってきちゃっていいからね! 後で、トラックで回収しに行くからさ!」
「よし、お言葉に甘えてここに置いて、タクシーで行こう!」
そう決意して昭和通りで手を挙げますが……
まぁ、捕まらない。
午前5時台の昭和通りは、空車のタクシーなんて流れていないのですね(苦笑)。
ここで「タクシーを呼ぶ」という選択肢もありましたが、私の頭の中に別の悪魔が囁きました。
(いや、待てよ……。ここでタクシーに呼んだら、タクシー代+タクシーを呼ぶお金が勿体ないじゃないか……?)
はい、見事なケチ心が発動しました。
「茅場町交差点あたりまで歩けば、永代通りを流すタクシーが捕まるかも!」という淡い期待を胸に、すっぱり諦めて自転車を押し始めることにしました。
霧雨のなか、55歳の限界突破ウォーキング
江戸橋から勝鬨(かちどき)橋までは約3.2キロ。
普段、自転車ならあっという間の距離ですが、「重い電動自転車を押して歩く」となると話は完全に別次元です。
齢55歳を超え、日々立ち仕事で体力には自信があるつもりでしたが、ひたすら歩き続けることには慣れていません。
「えぇい、重い……! 早くも足がパンパンだ……」(苦笑)
追い打ちをかけるように、茅場町交差点に差し掛かるころ、ポツポツと霧雨が降り始めました。
それが徐々に強くなっていくのを感じます。
傘を差すほどの本降りではないものの、路面はうっすらと濡れ、空気はベタつく湿り気を帯びていきます。
走り抜ければ気にならない程度ですが、羽織ったヤッケがしっとりと湿っていきます。
でも、不思議と嫌な気分ではありませんでした。 軽く汗ばむ体に、ひんやりとした雨がどこか心地よくすら思えたのです。
濡れた路面がわずかに街灯の残光を反射して、静かな朝の色をつくっている……そんな景色にちょっと浸りながら、自転車の重みを手に感じて一歩一歩進みました。
しかし、築地に差し掛かる頃には、風情を感じる余裕も消え失せ、完全に息が上がっていました。
額から吹き出る汗に雨の湿り気が混じり、袖がずっしりと重く感じられます。
じわじわと体力を奪っていく霧雨。
それでも、足は止めません。
「もし豊洲に着いて、ミル貝が無かったら……この苦労はすべて水の泡になる」
恐怖が頭をよぎります。
それでも、行って確かめるしかありません。
「仕入れ」とは、そういうものです。
勝鬨橋の救世主と、衝撃の事実
這う失意のなか、ようやく勝鬨橋のたもとに到着!
なんと、、目当ての自転車屋さんはすでに店が開いていました。
神様、仏様、自転車屋さん……!
事情を話すと、職人気質の店主は黙って手を動かし、ものの数分でチェーンを元に戻してくれました。
一安心してホッとした私に、店主がポツリと短く告げました。
「これ、チェーン替えた方がいいですよ」
「えっ!? まだ10年も経ってないのにですか?」
築地から豊洲へ移転してから乗り始めたこの電動アシスト自転車。
まだ7年少々です。
そんなに早くダメになるものなのか?と疑問をぶつけると、ご主人が教えてくれました。
「電動アシストはね、人の力よりも大きなパワーが加わるから、チェーンの消耗が激しいんだよ。特に魚河岸を行き来する人は荷物もたくさん載せるでしょ? だからなおさら。通常は4〜5年でチェーン交換だよ」
「ほえぇ〜〜〜! 4〜5年!? 参ったなぁ……(大ため息)」
実は、予兆はありました。
最近、ペダルを回すたびに「バキン!バキン!」と、どこか引っかかるような嫌な音がしていたのです。
以前、馴染みの自転車屋さんに見てもらったときは、「チェーンの油が足りないだけだよ」と油を差してもらい、その時はすぐに解決しました。
それからは問題なく動いていたので、チェーンカバーを外して中までしっかり点検していなかったのです。
猛省。
運命の豊洲市場。ミル貝の行方は――!?
修理を終え、再びサドルに跨ってペダルを踏み込みます。
「……軽っ!!!」
先ほどまでのあの地獄のような重さが嘘のように消え去り、自転車は滑るように進みます。
そのまま一気に豊洲市場へ!
時計を見ると、到着は予定より30分遅れ。
しかし、まだ取り返しのつく時間です。大急ぎで魚河岸に飛び込み、いつもの店へと突進しました。
ミル貝は、あるか、ないか。
目が合いました。
「あったーーーーーー!!!(歓喜)」
良かった! 本当に良かった! それだけで十分です。
朝から歩いた果てしない距離も、霧雨に濡れたヤッケも、遅れた30分も、すべてがこの「ミル貝」の姿一つで綺麗さっぱり帳消しになりました。
帰りのルートを頭に描きながら、勝鬨橋の自転車屋の店主の言葉を思い出していました。 「やっぱりチェーンは替えるべきだな。包丁も、まな板も、そしてこの自転車も、すべてが大切な仕事道具。道具の不具合は、いずれ仕事の質に影響する」
今日の休憩時間にでも、すぐに馴染みの店へ持っていこうと心に決めました。
それにしても、早朝のトラブルほど心臓に悪いものはありませんね。
もしこれで市場にミル貝がなくて、あの重い自転車をゼェゼェ言いながら引いて行ったのに「手ぶら」で帰ることになっていたら……
想像するだけで、その日一日、仕事をする気が消え失せていたことでしょう(笑)。
馴染みの自転車屋での、まさかのオチ
このブログを書いている途中で、さっそく例の「馴染みの自転車屋さん」へ相棒を持ち込んできました。
私:「勝鬨の自転車屋さんにさ、『もう寿命だからチェーン替えた方が良い』って言われちゃったんだけど、やっぱりそうなのかな?」
馴染みの店主、じろじろとチェーンを見ながら……
馴染みの店主:「いや、これチェーンがちょっと伸びて緩んでただけだよ」
そう言いながら、手際よく工具を使ってガチャガチャと調整してくれました。
馴染みの店主:「はい、これで緩みは直ったから外れないよ! しばらくこのまま大丈夫!」
私:「……え、替えなくていいんかーい!!(心の中の大ツッコミ)」
というわけで、まさかのチェーン交換なし(笑)。
費用も浮いて、明日からの魚河岸行きもこれで一安心です! めでたしめでたし。