明治36年(1903年)創業の正統江戸前寿司屋です。

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神様のいたずらか、職人の厄日か。糠床(ぬかどこ)の異変から始まった築地と清澄白河へ駆け抜けた一日

六月半ば、定休日明けの朝だった。
いつもと変わらぬ時間に店へ入り、照明を点け、静かな店内を見回す。職人にとって朝の店は特別な空間だ。

定休日といっても、店を完全に空けているわけではない。
包丁を研ぎ、備品を整え、翌日の営業に備える。客を迎えることはなくとも、職人の仕事は少なからず存在する。
客の声もなく、一日静かに過ごした店内には、どこか落ち着いた空気が漂っている。
今朝も仕込みの段取りを考えながら奥へ向かった。

その時だった。ふと足元に違和感を覚えた。

糠床(ぬかどこ)を置いている場所の床が濡れている。
いや、正確に言えば、その異変自体は今日突然始まったものではなかった。二、三週間ほど前から、その辺りが何となく湿っているような気はしていたのである。

しかし、人間というものは不思議なもので、明らかな問題にならない限り、都合よく見ないふりをしてしまう。
「水でもこぼしたのだろう」
「気のせいかもしれない」
「今は忙しいから後で見よう」
そんな小さな言い訳を積み重ねながら、私はその違和感を放置してきた。

ところが、今朝は違った。
床にははっきりと液体が流れ出た跡があり、触れてみれば明らかに湿っている。
もはや疑う余地はない。
長年使っている糠床の容器――琺瑯(ほうろう)引きの寸胴に穴が開いたのだ。

糠床は筆者にとって、単なる漬物の容器ではない。毎日手を入れ、状態を見極め、季節ごとに微調整を繰り返しながら育てていく、生き物のような存在である。
その住処(すみか)が壊れた。
これは放置できる問題ではなかった。

営業に支障が出る前に、新しい容器を確保しなければならない。
幸い、その日は昼の休憩時間がある。その時間を利用して買いに行こう。
そう決めた私は、長年世話になっている築地場外市場の道具屋「藤井商店」に向かうことにした。

築地で商売をしている人間なら、知らない者はいない老舗である。
飲食店向けの道具が所狭しと並び、必要なものがあればまずここへ行く。

私の頭の中には二つの選択肢があった。
今まで通りの琺瑯引きの寸胴を買うか、あるいは思い切って瀬戸物の甕(かめ)にするか。
どちらが良いかは現物を見ながら決めればよい。
まずは店へ行こう。
そう考え、念のため出発前に電話を入れた。

呼び出し音が鳴る。
しかし、誰も出ない。
やがて留守番電話へ切り替わった。
その瞬間、胸の奥に小さな不安がよぎる。
「今日はもう店じまいしたのか? いつもなら16:00まではやっているはず……」
いや、待て。今日は水曜日だ。魚河岸の休市日(きゅういちび)である。単に休みなのかもしれない。

考えていても答えは出ない。とにかく行ってみることにした。
どうせ築地へ行くなら、ついでに行きつけの喫茶店にも寄ろう。ちょうどコーヒー豆も切れていて、買わねばならなかった。休憩時間を有効活用するには悪くない計画だった。

初夏の日差しの下、自転車を走らせる。
六月の東京は、すでに夏の入り口に立っている。
風はまだ爽やかだが、陽射しには確かな力がある。街路樹の緑は濃く、空は高い。

いつもは5時台の早朝にしか通らない道筋。人混みを避けながら、車の波にもまれながら、「昼のこの道はこんななのか……」と新しい発見をしていた。いつもより慎重に自転車を築地に向かわせた。

休日とも平日ともつかない築地へ向かいながら、私は新しい糠床の容器についてあれこれ考えていた。
瀬戸物の甕は魅力的だ。温度変化に強く、昔ながらの風情もある。だが重量がある。
一方、琺瑯引きは扱いやすい。長年使い慣れている安心感もある。しかし、意外ともたない……。

職人の道具選びとは、案外こういうものだ。性能だけで決まるわけではない。長年培った手の感覚や習慣も、重要な判断材料になる。
そんなことを考えているうちに、築地へ到着した。

しかし、予感は当たった。
藤井商店のシャッターは閉じられていた。
近づいて確認すると、どうやら既に営業を終えているらしい。電話に出なかった理由もこれで分かった。

残念ではあったが、仕方がない。以前ちらりと聞いた事があったような気がする。「休市日は早く閉めます」そんなことを店の人が言っていた……。

まぁいい、まだ喫茶店がある。美味しいコーヒー豆を買って帰れば、少しは気分も晴れるだろう。

ところが、人生は時に意地悪である。
目的の喫茶店へ着いてみると、入口には閉店を知らせる札。店内の灯りも消えている。扉には「本日臨時に14:00で終了いたします」の文字。
「あら~……実に残念!今14:15か!くっそ~」

あと少し早く来ていれば間に合っていた。わずか15分。
その数字が妙に悔しい。
一時間なら諦めもつく。半日なら仕方ないと思える。だが15分というのは、人の心に微妙な未練を残す。まるで目の前で電車が発車していくのを見送るような感覚だ。

私は思わず苦笑した。糠床の容器は買えない、コーヒー豆も買えない。ここまで来て二連敗である。まさに泣きっ面に蜂。

普通なら、そのまま帰るところだろう。
しかし私は少々意地になっていた。このまま手ぶらで帰るのは悔しい。まだ打つ手はある。
そうだ、清澄白河のホームセンターへ行こう。あそこなら甕くらい置いているはずだ。
思い立った私は、再び自転車にまたがった。

新大橋通りを北上する。八丁堀を抜け、鍛冶橋通りへ。
街は穏やかな午後の表情を見せていた。観光客が歩き、配送車が行き交い、サラリーマンが昼食を終えて職場へ戻っていく。東京という巨大な都市は、一見無秩序に見えて、実に精巧なリズムで動いている。

永代橋(えいたいばし)が見えてきた。
橋の上から眺める隅田川は穏やかだった。水面に陽光が反射し、小さな波がきらきらと輝いている。その景色を眺めながら、自分が今なぜここを走っているのかを考えた。

たかが糠床の容器、されど糠床の容器。
鮨屋の日常とは、こうした細かな問題への対応の連続なのである。
魚を仕入れる。米を炊く。酢を合わせる。包丁を研ぐ。そして糠床を守る。
客から見えない部分にこそ、店の品質を支える仕事が無数に存在する。

橋を渡り終えると、川沿いの道を進んだ。風が気持ち良い。
目的を果たせていないにもかかわらず、どこか楽しい気分になっている自分がいた。

自転車という乗り物には、不思議な力がある。車ほど速くなく、徒歩ほど遅くない。街の匂いや風景を感じながら移動できる。普段は仕込みと営業に追われる毎日だが、この日は久しぶりに東京の街をゆっくり眺めている気がした。

やがてホームセンターに到着した。
私は期待を込めて店内へ入り、甕の売り場へ一直線に向かった。

そして……無かった……。
欲しかったサイズだけが、見事に無かったのである。
小さいものはある。大きいものもある。しかし、肝心のサイズだけが空白になっていた。

思わず天を仰ぎたくなった。ここまでくると笑うしかない。
一日に三度続けて目的を外すというのも、なかなか珍しい。神様のいたずらだろうか。あるいは「今日は慌てて買うな」という戒めだろうか。
無理に今日決めなくてもよい。もっと落ち着いて選びなさい。そんな声が聞こえてくるような気さえした。

結局、私は何も買わずに店を後にした。

休憩時間を利用して店を飛び出し、築地へ行き、喫茶店へ行き、さらに清澄白河まで足を延ばした。結果だけ見れば完全な空振りである。目的は一つも達成できなかった。

しかし帰り道、不思議と落胆はしていなかった。
確かに無駄足だったかもしれない。だが天気は良かった。自転車で街を巡った。久しぶりに永代橋から隅田川を眺めた。普段通らない道も走った。それだけでも収穫と言えなくはない。

商売を続けていると、思い通りにいかない日は必ずある。
仕入れが外れる日もある。予約が伸びない日もある。予想外のトラブルも起こる。
しかし大事なのは、その度に前を向くことだ。今日が駄目なら明日がある。

そう考えながら店へ戻った。
そして心に決めた。

明日の朝、魚河岸へ仕入れに行った帰りに、改めて道具屋へ寄ろう。喫茶店にも立ち寄ろう。
今日果たせなかった目的を、明日こそ達成しよう。

糠床は待っている。
鮨屋の日常は続いていく。
たとえ空振りの一日であったとしても、その積み重ねが店を支え、商売を続ける力になるのだから。